圧縮輪廻☆ひねくれポスト

弥生の川に飛び込んだ女と切腹未遂の女の往復書簡

ファインディング・ドリーはせいぞんせんりゃくの書

to 黛
殺意をテーマにしようとしたら空中分解したので明るくいきます

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"すな、すき。ぺたぺたしてて。ママはむらさきのかいがらがすき。こっちには水がいっぱい、こっちには海藻。海藻の方がいい。 "
                         ファインディング・ドリーより

1.

ファインディングドリーを初めて観たのは公開当時の大学三年生の夏だ。本編を見る前から予告編で喉の奥が焼き付いたし、本編を観たあとはよっぽど声をあげて走り回りたかった。一緒に見に行った母親とケーキ屋さんに入るのに、ランドマークの下の石畳の回廊で道に迷って「どうしよ、どうしよ」とドリーの台詞を口ずさんだ。まるで水の中みたいに地下の回廊に声が反響していた。

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ドリーは健忘症の症状があり、自分で言ったことも人に言われたこともすぐに忘れてしまう。今作ではドリーが自分に両親がいたことを思い出し、どこにいるかも分からないまま会いに行こうとするという筋立てだ。
旅をしていくうちにドリーは昔のことを少しずつ思い出す。ドリーは貝殻が好きだから、家の場所を忘れないように両親が貝殻の道を作ってくれたこと。忘れてはいけないことは歌にしてくれたこと。両親は彼女を尊重し、彼女に合ったやり方をつくっては実践していた。
そう、まるで、である。ドリーは発達障害のような人たちを描いているのではという意見がはてブツイッターにバンバンあがるように、ファンタジーの皮が無かったら死んでいるレベルのゴリゴリにきわどいタッチで現実を容赦なく抉り出す。いつもはからっと明るいドリーが「誰かに助けて貰わないとどこにも行けないの」「直そう直そうと思ってたのに直せなくてごめんなさい」「頑張っても駄目だったの」と過剰なまでに自分を痛めつけるような言葉を連発するとか、両親が「あの子はこれからひとりで生きていけるの?」と夜中に泣いているのを聞いてしまうとか、思い当たる人には思い当たる、胸が引きちぎられるような場面のオンパレードだ。

”ドリーは私だ”と、観ている時からずっと頭の中で唱えていた。ドリーは私だ。ドリーはわたし。現実がどんなに不理解の連続でも、わたしはあなただと強く思わせてくれる物語がひとつでもあれば、この世で形をたもっていられる。私はドリーの瞬発的な脈絡の無さも、嫌なことがあった時は驚くほどはっきり拒絶するところも大好きだ。

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このような感情の流れがあり、「ドリーは私だって思ったんだよね!」とだけ後に某人に述べると「ああ、共感ね(笑)」と見下した感想が返ってきた。
私は怒りの瞬発力で言語を散弾銃にすることに命を懸けているから、まず大前提としてあのディズニーが薄っぺらい描写だけでエモーショナルを誘うようなものはつくらないし描かれるものすべてに意味があるだろと銃弾を備えていたが、「○○も観たって言ってたけど、映画としてはあんまよくなかったんじゃないかって」と続けられ、それについては確かにそうかも……と思う節があったからそのまましぼんでしまった。
私はちぐはぐで錯乱している、現実をうっちゃって必死に物語に活路を見出そうとする人間で、だから引っかかる部分がある。ドリーが何故両親に出会えたのかを、この映画では「あなたらしいやり方で覚えていたからよ」と説明したように思った。そしてドリーは記憶を頼りに進んでいく。
でもさ、それって本当にうまくいくのかな。私にはそんな記憶がないし、助けてくれるタコのハンクのような人にも、居てほしいときに出会えるわけじゃない。再現性をどこに見出せばいい? これは現実のどの事象に当てはめるのが正しい?
そういうもやもやが晴れずじまいだったから、私は褪せた評価のままそのシーンを止めてしまった。

 

2.

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そんなことしなくてよかったんだ!

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社会人になって「あ、社会に適合できねえ」という状態を大いに理解した。
まず、言葉が通じない。何それ? って言われるけどその説明のできなさそのものが共通言語の無さだ。結論ファーストで要件を言えと言われると、ふつうなら筋道だてればいいものをさらにそこから「まずは私のバイアスを取り除いて、ふつうの思考形式の範囲を予測して……」とひとつ無駄な操作が入る。ただし、結果としてそもそも普通が分からないので土台無理である。

「世の中にふつうなんてないよ!」と言ってくる人はいるけど、それは革新的なアイデアのような響きをもつわりに、なんにでも当てはまりすぎてもはや何を言ったことにもなってない空っぽの思想だってことに気付いてほしい。もう変であることをアイデンティティにしてるとかそういう段階は過ぎて現実に支障が出ている。変とか変じゃないとか、相対性で判断してくれ。絶対を決めたところで救われねえから。実用性が全くないんだって。
悩みを話せとかいうけど、こういうレベルから食い違いが始まるから、対話すべて新たな怒りと分かり合えない不条理しか生まない。この世は修羅、だって権力の名のもとに言語は統制されるから。来る日も来る日も加算されるなんだか形をとらないまま私を圧迫するディスコミュニケーションのストレスが、これが、社会なんだろうか。詩人とか役者がドロップアウトした背景はここにあり、空気を読めという言説がいかにして幅を利かせるようになったかがよーくわかった。

 

古今東西、挙動不審になる人間はいて、私は挙動が不審になる側に大いに感情移入する人間だ。挙動不審というのは、もう自分の不振さを自覚しながらそれでもその挙動を止められないものなのだ。
この夏、完全変態Tシャツを買った。蝶が無限に続くマスキングテープも買った。どこかにあると聞いたアジアンセンターで買って昆虫を食べたいとことあるごとに思う。会社の机の引き出しにはお茶のパッケージについた俳句を集めた箱があるし、薬局でリップを包んだ茶色の紙袋から、クリスマスの公民館のにおいがするので小学生のころを思い出して嬉しくなってしばらくの間すーはーすーはー、嗅ぎつづけた。
得意な課題はテンションが爆上がりして目が潤むほどなのに、苦手な課題は寝落ちしてしまうほど集中力の制御ができない。這うように日々をかき分けて進むなかで、虫や短歌やいつかと同じ匂いや、そういうものぶち込んでソリューション。低下した体力となけなしの腕力で、投げた固いロープを張ってそれだけを頼りに、全体重かけるしかなくて掴んでクライム。好きなもので満たされた空間に入り込んで、ただその文章に溺れては潜り、深く息を吸って音やにおいにひたると、私はやっとしずかに自分を満たすことが出来る。


 ああ、そうか。物語の筋立てが必ずしも答えではない。

ファインディングドリーの本質はむしろ、”すき”とか”記憶”の効用にあるのではないか。

 

3.


”好き”という気持ちが何より大事で自分を支えてくれるとはよく聞く。そんなの嘘だと私たちは思う。だってそういうのは超ヒットを飛ばした天才シンガーや大団円を迎える少女漫画の主人公が言う台詞で、そんなアッパーで強靭な意志のある”好き”を軌道に乗せる経路なんて、けっきょくパワーのある者しか建てられない。
でも、もしかしたら。その”好き”はふたつあるのかもしれない。ひとつはちからいっぱい叶えなければいけない、かくあるべきという高みへの”好き”。そしてもうひとつは、懐かしくてやさしいところへ飛び込んで還るためのままある”好き”だ。
”すな、すき。ぺとぺとしてて。””貝殻がすき。”とドリーは思い出す。それは弱ったときの退行や甘えではなくて、力をぬいて、息の吸える場所でもういちどぴかぴかの心とからだを再生させて泳ぐためではないか。
私の好きは小学校の形をしている。母と弟と歩いた公園までの道のにおいをしている。昔に戻りたいという感情に親しみはないけれど、ふと日常に蛍火のような記憶の息吹があり、一度気づけば思いもよらないほどがっしりと、私を支え励ましてくれることがある。

ファインディングドリーの"好き"は、歯を食いしばって手に入れる選択意志の好きではない。いつだって支離滅裂に頭はとっちらかっていて、手がかりは掴んだと思った瞬間バラけてしまう。意識すればするほど自分にさえ自分は思い通りにならなくて、きりきり舞いで肩はガチガチで、だからもういいのだと言おう。"好き"と"記憶"の海流が、まったく足がかりのない現実に燈籠みたいに突然あらわれて君をチャージさせてくれるから、こうすべきだなんて考えないで、あなたはあなたのままで何かを成し遂げられる。

キャラクターは賑やかでクライマックスは派手なこの映画のラストシーンはとても静かで、下手したら意味を見落としてしまう。でもあの演出とそこに描かれた質感こそが、いつもあった自己をようやく肯定した感触なのだと納得がいく。言われるまで思い出せないような、否定しきってたどり着いたような、消極的な"好き"だって本当は自分を支えている。全てをうっちゃった無意識の中に大切なものが無いわけが無い。人類に無意識という余剰を設けたのは、意識に行き詰まったときに海流のようにかくはんされて、その先を見つける生存戦略のためでしょう。