わたしの地獄/黛
to エーオー!さん
お待たせしましたすみません!
自分の「書けない」が甘えなのか、持病のメンヘラなのか自身では判断が難しいです。
何が正解なんだ‥‥。
パニック発作、抑うつ、軽度のアルコール依存症を併発したわたしも、必須単位数ぴったりで無事大学を卒業しました。
桜の咲く季節は別れの季節。
度重なるオーバードーズで詳細な記憶を保持することや、過去の関係性を続けること、同じ団体に所属し続けることがどうにも下手糞なわたしにとって、決別するための季節が用意されていることは、吐しゃ物とアルコールに塗れた人生を切り抜けるための一つの希望でした。
小学校なら6年、中学・高校なら3年、大学なら4年。
青春のある程度の時間を息を潜めて粛々と過ごせば、少しはマシな次のステップへ進める。
そしていつか、「学生」という鉛のような枷を外すとき、わたしは初めて自分を助けることができる。
飛び降り、切腹、オーバードーズ、首吊りと、何度か人生のドロップアウトを試みたわたしですが、こんな女にも一応、希望と呼べるようなものがあったのです。
それは、「親の加護から外れる」ことでした。
わたしは両親共働きの中流家庭に生まれました。
高校までの狭い界隈では、頭もよく、読書家で博識。礼儀正しく、大人しい。
親の言いつけは何でも全て守り、5つ下の妹の面倒も見、家事も手伝い、文句は言わない。
近所でも評判の<いい子>。
恐ろしく完璧に<いい子>だったという自覚があります。
なぜなら、<いい子>でなければ母親に存在を無視されたからです。
母は、「しつけ」というものが実はよくわかっていなかったのではないでしょうか。
食卓を囲むとき、母へ少し文句を言ったり、友だちの家とおこづかいの額を比べてよその家を羨んだり、(これは全くの事実無根の濡れぎぬだったのですが)嘘をついたりしたとき、母は露骨に眉を潜め、視界にすら入れたくないという顔をしてむっつりと口を閉じました。
母の「しつけ」は、母が気のすむまで行われました。
朝のあいさつは返ってこない。料理以外の全ての家事をして、おかえりと声をかけても返事はない。食事中に一生懸命話題をつくって話しかけても、母はわたしを一瞥もしませんでした。
父は私が中学を卒業するまで単身赴任で家には居らず、母の機嫌がなおるまで、黛家の食卓は凍りついていました。
ところで、最近、母は犬と人間の「しつけ」を混同していたのではないかと思い至りました。
「しつけ」として徹底的に無視をする手法は、主に飼い主が犬を従順になるよう調教するために行われます。
祖母のすむいとこの家と実家を行き来するちょっと変わった飼い方で、実家でトイプードルを飼っているのですが、トイレトレーニングをする際、ネットで調べたら「粗相をしたら無視をする」という方法が紹介されていて、笑ってしまいました。
結局、犬をしつけるつもりだったのは家族の中でわたしだけで、母も祖母も、粗相をしようがマーキングをしようが犬を溺愛し、結果彼は若くしてオムツをつけて生活することとなりました。
話を元に戻します。
とにかく、わたしにとって当時の実家は、決して心安らぐような場所ではなく、母親とはいつわたしを捨てるとも知れない恐ろしい存在でした。
少しでも母の表情が歪むと、心臓に激痛が走ります。
母の機嫌を損ねないよう、出された食事は多くても食欲が無くても全て食べきっていましたが、母が風呂に入っている間にこっそり吐いた経験は、片手では足りません。
毎日必死に話題を作り、母の顔色を窺って生活していたあのころから、わたしは絶対に大学入学をきっかけに地元から離れると心に誓いました。
一刻もはやく、少しでも遠く、なるべく人の多い所で、親の支配を免れて暮らしたかったのです。
今日まで続く全ての疾患の原因は、間違いなく母の「しつけ」です。
母は、わたしが一番初めの自殺を試みたとき、カウンセラーの先生からこの事実をわたしの前で聞かされました。
母は、狭いカウンセリングルームで「黛ちゃん、ごめんなさい」と涙を流しました。
最低だ、と思いました。
この20年の地獄が、「ごめんなさい」の一言で済むだろうか。
「お金がない、自殺未遂をした」と送ったメッセージの直後、口座に増えた10万円。
その金で、一体わたしの過去の何が補填されたのか。
母はもう、わたしにお金を渡すしかできません。
生涯消えない深すぎる傷をわたしに植え付けた母自身ですら、わたしを助けることはもうできないのです。
自傷としての嘔吐は、未だに続いています。
小学校5年、塾の全国模試で国語で満点を取り、わたしは全ての小学生の中の一位になりました。嬉々として母に見せると、明日みるからと返され、ダイニングテーブルの上に置きました。
翌朝、結果のプリントされたその紙は、ごみ箱に破かれて捨てられていました。
中学2年、今思い返しても理不尽に大きな声で怒鳴りつけることを「指導」と呼ぶ教師たちが恐ろしくて不登校になりかけた日、「お前の生き方は間違っている」と母は2時間、わたしに話して聞かせました。
母に無視されるのが恐ろしくて、わたしは毎日学校のトイレで胃液を吐きながら中学に通いました。
あからさまにわたしのことが嫌いな女性顧問の居た吹奏楽部もやめられませんでした。
高校2年、文化祭・体育祭での無理がたたり、過呼吸で倒れ、保健室に運び込まれたわたしを迎えに来た母は、後部座席に横たわるわたしを一瞥もせず「情けない。ため息が出る」と言いました。
いろんな大人に、友人に、助けを求めました。
でも、わたしは助かりませんでした。
当然です。
みんな、自分の日々の生活しか頭にないのです。
すぐ隣の人間が、いますぐ死のうとしていても、助ける義務なんてだれにもないのですから。
孤独で爛れた胃を守るように蹲って、両親に見つからないよう声を上げない泣き方を見つけました。涙を見せると「不細工だ」と嘲笑されるからです。
誰かに助けを求めることを辞めました。無視されることが恐ろしかったからです。
そうして、5480日に及ぶ孤独との戦いの上、今、わたしは死に損なって生きています。
あんなに沢山死のうとしたのに、こんなにつらい思いをしたのに、死ぬべき瞬間はいくらでもあったのに。
何故か遂げることができずに今、泣きながらブログを書いています。
あの日のわたしへ、これからのわたしへ。
そしてわたしによく似た、愛するべきあなたへ。
世界はあなたのために廻っているわけではありません。
他人は助けてくれないし、奇跡は起きません。
傷を負わされたわたしたち自身が、お金を払って治療を受けねばならないほど、世の中は理不尽です。こんな傷が塞がっても、意味がある人生では決してないのに。
だけど、それでも、こんなに救いがなくても、今日を生き抜いたあなたと、あなたの見るオリジナルな地獄は目を見張るほど美しい。
誰かが見守ってくれてるわけじゃない。何のためでもない。
オリジナルの美しい地獄を、明日も明後日も、難しいなら今夜だけでも、一緒に見て居ようではありませんか。
その地獄を戦い抜く自分だけの正義を研ぎ澄ませて、煌めく殺意を握りしめながら。
黛(2019.3.29)